イラク日報検索【イラク日報村】

  2005年03月23日の日報 (8ページ目)

ではない→多国籍軍・アメリカを信用するな、占領されたことを忘れるなという意味| ●サドル派は県の組織、特

  2005年04月08日の日報 (9ページ目)

ンマド議長側が何らかの原因で当議員に対し恨みを抱いたことによるもの○現在県政においては、ハッサー二知事(

  2005年12月12日の日報 (16ページ目)

で現在休養中の方はどうでしょうか」と確認行為があったことだった。過去の演習時で私が見た米軍の様子は、3割

  2005年04月17日の日報 (12ページ目)

生した際に、黄軍(当時)のヘリが出動し事態が収拾したことから、イラク警察が要請したもの【現地情報)○部族

  2005年04月27日の日報 (9ページ目)

経済力の向上及び付近にはサドル派のモスクしかなかったことへの反発から、住民等の基活により建設||●一般住

  2005年05月05日の日報 (9ページ目)

●市内でのIED事案は、8月以来→消防局が処理できたことから複雑なものではない→対応を様子見している可能

  2005年05月05日の日報 (10ページ目)

米英軍を支援するために来た」「我々の主張が正しかったことの証明だ」「撤退するなら何故オーストラリア軍を呼

  2005年05月05日の日報 (18ページ目)

退するのではないかとのニュースが現地メディアに流れたことは大きな意味を持っている。いらぬ誤解をあたえぬた

  2005年05月07日の日報 (15ページ目)

指導事項ー今回、業支隊長が部族や宗教指導者を訪問したことによって、日本隊に対する住民の好意的な評価や、手

  2005年05月08日の日報 (9ページ目)

ィ師(約120名)●内容:「新政府はサダムの実行したことを見習わないようにしなければならない。彼の行なっ

  2005年05月08日の日報 (11ページ目)

いたグループ(サドル派・失業者等)●主張が正しかったことの証左、闘争の勝利と一様に歓迎(サドル派民兵はス

  2005年05月11日の日報 (15ページ目)

29m2完成点検実施中の隊員。日本の支援で補修されたことを示す標識別紙第2ワルカ浄水場施工状況確認施工中

  2005年05月25日の日報 (8ページ目)

る動きなし石油精製所●24日午前中に求職者が訪問したことから、逆恨みによる犯行の可能性が高い※石油精製所

  2005年05月25日の日報 (9ページ目)

きと同一犯若しくはその仲間が23日の落書きが消されたことへの腹いせに実施した可能性た網新しい落書き発見・

  2005年05月25日の日報 (16ページ目)

施するうえにおいて、人の動き、物の動きや時間といったことは、常に正確に把握しておかなければ」ならない。間

  2005年05月27日の日報 (16ページ目)

指導事項:一第5次群の活動間、みんなに支えてもらったことに感謝したい。ありがとう。第5次群の活動も本日で

  2005年05月29日の日報 (18ページ目)

ことができるのか、何をしようとしているのか、といったことを総合化することが重要である。また、それを知るべ

  2005年06月01日の日報 (17ページ目)

立入証を保持しておらず、メインゲートまで受領に行ったことに関する状況の説明・現在はイラク人が新たな立入証

  2005年06月22日の日報 (15ページ目)

考)(1) 先日バグダッドへの配水施設が攻撃を受けたことにより、キャンプヴィクトリー内一部の施設への給水

  2005年06月23日の日報 (8ページ目)

近における爆発事案について(23日1600現在)またこれまでには【概 要】○日時:6月23日 0900○

  2005年06月23日の日報 (10ページ目)

土産。3号車は車内も土煙が立った。車両が走行していたこと、及び塩発で驚いていたことから、正確な位置及び走

  2005年06月26日の日報 (9ページ目)

察が現場付近の住宅を捜索し、支持者を20数名拘束したことに抗議+22日に米軍がナジャフのサドル関係者宅を

  2005年06月29日の日報 (10ページ目)

(し)を実施する可能性28日のデモで死傷者が発生したことから、市内においてデモが再び発 | 6/28追加

  2005年06月29日の日報 (15ページ目)

た事案等を考えると、宿営地外での活動を自請中であったことは幸いであった。宿営地外活動を実施していたならば

  2005年07月01日の日報 (9ページ目)

実施する可能性デモ関連28日のデモで死傷者が発生したことから、市内においてデモが再び | 6/28追加発

  2005年07月02日の日報 (9ページ目)

実施する可能性デモ関連28日のデモで死傷者が発生したことから、市内においてデモが再び発 | 6/28追加

  2005年07月03日の日報 (9ページ目)

●内容:「サマーワで発生したデモにおいて、死者が出たことは、ハッサーニ、ザイヤーディの2人に責任がある」

  2005年07月03日の日報 (14ページ目)

脅し)を実施する可能性28日のデモで死傷者が発生したことから、市内においてデモが再び発 | 6/28追加

  2005年07月05日の日報 (9ページ目)

脅し)を実施する可能性28日のデモで死傷者が発生したことから、市内においてデモが再び | 6/28追加デ

  2005年07月16日の日報 (4ページ目)

月16日成果(PHC))thaれだけの11に出会ったこれに当たるというものイステカラルPHC補修(ワル(

  2005年07月16日の日報 (15ページ目)

に中止した。これは、治安情勢が十分に確認できなかったこと、特にヒドル周辺の電力事情・ガソリン供給事情の悪

  2005年07月24日の日報 (11ページ目)

るにもかがわらず、参加者の暴徒化の程度が低調であったこと。ビジ議により事前に承知していたと書えられる意繋

  2005年08月03日の日報 (9ページ目)

の犯行であるとは考えられないが、最近南東部で発生したこの種の即製爆弾を使用した攻撃にサドル派民兵のメンバ

  2005年08月07日の日報 (10ページ目)

ものの、復興支援活動時、地域の住民反応が良好であったことから日本に対する反感はサドル派の扇動のみであり、

  2005年08月07日の日報 (11ページ目)

他ラク陸軍も対応したが、事態を迅速に収拾できながったことはイラク治安部隊に対する信闇艦頼を低下させる可能

  2005年08月13日の日報 (5ページ目)

政可等の補修園に43名/日■用には、ワル力エイルしたことになっ たレ (97式終了し完成式投資と市民生局

  2005年08月14日の日報 (9ページ目)

てその上を通過せよ」という指示のビラが配布されていたことを確認●6月11日・パークのサドル派事務所前車道

  2005年08月14日の日報 (11ページ目)

おけるデモの間に自爆テロを実行するためサマーワに来たことを認めた。○関連情報●昨日1800~1900の間

  2005年08月21日の日報 (10ページ目)

発言がほとんどなかったのは、デモ関係の発言がなかったこととの関連も指摘しうるが、実際にこれらの状況が改善

  2005年08月21日の日報 (18ページ目)

人員輸送が緊急オペレーションのため、実施困難となったことに際し)、MND(SE)に要請するヘリ人員輸送は

  2005年11月13日の日報 (20ページ目)

朝勤務は、奇風に映るようで, "Cray と言われたことも何度かあります。チームで多多損な素務を朝から晩

  2005年08月28日の日報 (10ページ目)

止せず。○武器の携行、武器に見えるものを窓外に出したことを否定。O負傷の程度は生命に別状なく、タリル空港

  2005年08月28日の日報 (11ページ目)

発言(23日付アルファラット紙)等のデモ情報があったことから、今次デモは計画的なものであったとみられ、サ

  2005年08月28日の日報 (12ページ目)

られる。本日、サマーワ以外ではこの種のデモはなかったことから、今次デモはSCIRI中央の計画ではなくサマ

  2005年08月29日の日報 (12ページ目)

サマーワ宿営地近くに迫撃砲弾着弾とされた記事が載ったことに関して)今朝、陸幕長、防衛部長等には、これを誤

  2005年09月26日の日報 (7ページ目)

いては、現場を取材し、参加者中に不満を持った者がいたことから当該記事を作成。

  2005年09月26日の日報 (18ページ目)

ている。また、 トリはイラクにおいて、まだ撃墜されたことはないが、シーキング2機が衝突して6人が、ピュー

  2005年09月28日の日報 (18ページ目)

ている にあるブースであるが、誰も中の状況を確認したことがない。重要事項はこういった密室で決定されていく

  2005年10月02日の日報 (12ページ目)

以前にありHERにおいて憲法装機の発言が多くみられたことは、これと一致するものと考えられる。以上ン派の動

  2005年10月05日の日報 (10ページ目)

も考えられる 。ドル尿事務所付近に関連動向がなかったことのデモの抗議内容が知事辞任要求ではなく、イラク治

  2005年12月09日の日報 (15ページ目)

と淡泊な反応。ずいぶん前から延長すると報道に出ていたこと、イラクの首相が訪日したことなどから、飛遺延長は

  2005年10月10日の日報 (10ページ目)

日のデモは、OJAM(サドル派民兵)に動きがなかったこと、の集合・解散が組織的」でなく、扇動者がみられな

  2005年10月10日の日報 (13ページ目)

可能性がある。●昨年、ラマダン期間中のデモはなかったことからも、ラマダン期間中に暴力的な大規模デモが発生

  2005年10月14日の日報 (16ページ目)

す。特にアメリカ軍だったら尚更です。怪我人もなかったことだし、.. また、情報収集をして任務をするだけで

  2005年10月14日の日報 (18ページ目)

誌(10月14日)|| 朝会結の状-が随分と変わったことに気づいた。 N スラに来て3ヶ月が過ぎ、いつの

  2005年10月16日の日報 (9ページ目)

に反対する。バース党が人々を殺したり、苦しめたりしたことを許すことは出来ない。憲法に反対」を伝達●デ モ

  2005年10月19日の日報 (9ページ目)

員殺傷の威力を有する即製爆弾が運転席に指向されていたことから、装置は遠隔操作式で、運転者を殺傷するよう設

  2005年10月19日の日報 (17ページ目)

Pが更新され7次群の最新宿営地外活動状況が掲載されたことを紹介した後)できれば陸上自衛隊HP上に宿営地外

  2005年10月21日の日報 (16ページ目)

次に交代し、また、作戦室の地図も新しい物に交換されたことなどから「次の焦点に向けた準備期間」「一時の休息

  2005年10月22日の日報 (16ページ目)

行った。「お前の声が聞けなくて寂しかったぞ」、「またここも賑やかになるな」等、みんな暖かく迎えてくれた。

  2005年10月22日の日報 (17ページ目)

験があったり、YSで一緒だったり、同じ町に住んでいたことがあったりします。世界は意外に狭いのかもしれない

  2005年10月23日の日報 (11ページ目)

訪問時、部族長が食事をもてなし、日本隊とともに食べたことに関する噂がある。○説法者:ケース師●多国籍軍に

  2005年10月28日の日報 (13ページ目)

送りを実施せよ。我々の経験上、国内副練で実施してきたことはここで要求されることの7割程度に過ぎない。あと

  2005年10月30日の日報 (12ページ目)

のg躍露盤冠語合次礼拝は宗教行事が行われた週であったことから、全般的に宗教関連の説法が多くなったものとみ

  2005年10月30日の日報 (18ページ目)

一本日、7次群及び8次群のそれぞれの第1波が交代したことになる。ご苦労様。ー明日のJ1(訪問者宿営地外視

  2005年11月03日の日報 (10ページ目)

の3日間のことであり、人々は無事に断食明けを迎えらたことを神に感謝する。イードル・フォトルとは「断食を破

  2005年11月03日の日報 (19ページ目)

の中に自分がいることが許せないから、私がウインクしたことは一度もない。0 今日は文化の日・・何するの?・

  2005年11月04日の日報 (17ページ目)

を見上げると・2~3km先に湾岸戦争時にテレビで見たことがあるような光景が.. 音も大きかったので少し動

  2005年11月05日の日報 (12ページ目)

勢:0 群長指谋事項ー(最高気温 F30度を下回ったことに関して)風邪をひかないように気をつけよ。| 1

  2005年11月06日の日報 (10ページ目)

過去の例としては、サマーワにおいて暴力的デモとなったことがある。O11月1日燃料の問題が継続。燃料及び電

  2005年11月06日の日報 (12ページ目)

派がスンニ派と同じ日からイードル・フォトルを開始したことで、シーア派市民の中には怒っている者もいるが、我

  2005年11月06日の日報 (13ページ目)

礼拝は、ラマダン明け後のドル・フトルの期間中であったことから全般的にはルに関する説法が多かった。サドル飾

  2005年11月09日の日報 (17ページ目)

・ありがとう …?・最近も近くで爆破テロが発生したこともあり、我々が動務するキャンプ・ヴィクトリーとは

  2005年11月10日の日報 (18ページ目)

ペレーション」では と 同じ多国籍軍司令部で勤務したこともある。我々が、ここに来て以来、何かと気にかけて

  2005年11月11日の日報 (16ページ目)

ここで自由と民主主馬そしてイラクのためにともに戦ったことを誇りとし、未来||のために頑張っていこう。」と

  2005年11月11日の日報 (18ページ目)

。私の基準からするとマリオット准将は、今まで話をしたことのある英国人の中でもっとも正しい英語を話す英国人

  2005年11月12日の日報 (17ページ目)

国防省の警備やイリエスク大統領の直接野「備も担任したこともあった。・革命の翌年の1990年は、国内の対立

  2005年11月12日の日報 (19ページ目)

では子を破るという規定があるはずだ。」とコメントしたことを思い出した。なお,師団長は本日は不在であっスミ

  2005年11月13日の日報 (10ページ目)

がサウジのパクィーアにある3つのイマームの基を壊したことについてギジ師自身|がスピーチを実施。・全シーア

  2005年11月14日の日報 (16ページ目)

コーの腕時計で、15年間使っていて、一度も修理をしたことがないらしい。この話機会あるごとに話すので、大佐

  2005年12月01日の日報 (16ページ目)

うにしていた。・先日の雨の日の部屋清掃で一因者あったことから、今回の引っ越しはどうかな?と思っていた。案

  2005年12月01日の日報 (19ページ目)

於いて、国防大臣は昇進者に対し、首長閣下の費れを得たことを祝福した。抄ェート4 兼ねて空軍司令官、ファハ

  2005年12月02日の日報 (15ページ目)

、* 先祖のお書は仏式が多い。わかるかな?」「固いたことがある。すごく興味がある。神社ってどんな神様がい

  2005年12月03日の日報 (16ページ目)

文化について教わることがあります。彼が日本に滞在したことがあって、ラーメン好きなのは知っていたけど、「五

  2005年12月04日の日報 (10ページ目)

mのであるリンク、サドル部を営業する発言が多見られたこれぼ同師の論費露08年S業者に言えられる。4G=ま

  2005年12月04日の日報 (18ページ目)

におけるサドル浜事務所付近において抗議行動等を受けたことに関して)ー食感バグダッドLO日々業務報告(12

  2005年12月04日の日報 (19ページ目)

・ 他国の基地訪問の加護がどうなっているのかは聞いたことがないが、今回の「ドタキャン」も彼らの責任ではな

  2005年12月05日の日報 (18ページ目)

ている。・バグダッドに来たら一目ぼやらっとおっていたことのなかの一つがスキンヘッドである。深い理由はない

  2005年12月05日の日報 (20ページ目)

アメリカに亡命したイラク人ですが、の通訳業務も勤めたことがあるそうで、情報畑での勤務係も長いようです。「

  2005年12月07日の日報 (10ページ目)

サマーワに新たにサドル派民兵の「聖戦」中盤が作られたことは、全国レベルのサドル派組織からの分離というより

  2005年12月07日の日報 (16ページ目)

出来事をおもしろおかしく話しながら食べるようになったことも、我々がここでの生活に慣れたことの表れかと思う

  2005年12月07日の日報 (19ページ目)

っ・栗工金不払いに照する17688件の苦情を解決。たことに原因がある。当域想については、安全が確認されな

  2005年12月08日の日報 (16ページ目)

空中佐)も近寄って来て、即席空手教室になった。覚えたことを試しながら、お互いに写真を取り合ったりしてえら

  2005年12月10日の日報 (16ページ目)

の日本人を見てきたけれど、感っている人や老い人を見たことがない。」と言われ、何故だろうと考えさせられまし

  2005年12月10日の日報 (17ページ目)

米国は日本がイラクへの自街酵沢道を12ヶ月間延長したことを熱烈に数迎する。@「英空軍C-130度落に関す

  2005年12月11日の日報 (9ページ目)

話したのかは不明)。●発見時、信管は付いていなかったことから、爆発させないように発射された可能性がある。

  2005年12月11日の日報 (14ページ目)

その上を通過せよ」という指示のビラが|配布されていたことを確認。●6月11日・サマーワのサドル派事務所前

  2005年12月11日の日報 (15ページ目)

れた日・米・イスラエル国旗を踏んでパレードを行なったことから、サドル派がこれら3か国を一体とみて敵視して

  2005年12月13日の日報 (18ページ目)

いたい。|- (昨日の宿営地に対する曲射射撃を受けたことに関して)動揺してはならない。動揺は敵につけ込ま

  2005年12月14日の日報 (16ページ目)

だ。「そうだね。体もここに来てから、怒鳴り声を聞いたことがない、気分よく仕事ができるよな。J・天R「日本

  2005年12月15日の日報 (18ページ目)

。カンボジアにとって歴史的な日を直接見ることができたことに感激したことを思い出した。今回は、投票所を直接

  2005年12月17日の日報 (15ページ目)

徒というのはあまりきかない。プ:神道というのは聞いたことがある。どんな神様なんだ?日:詳しいことはよく分

  2005年12月18日の日報 (10ページ目)

局である。 ・●あなた達がシーア派のリストに投票したことで我々はテロリストからの拘束を無効にした。感謝す

  2005年12月19日の日報 (17ページ目)

装不足の頭を抱えながら、数名で夜中にカラオケに行ったことを思い出した。・多少忙しくても、電話で家族として

  2005年12月20日の日報 (17ページ目)

い物にならない。」と講釈をたれた。・私がやって見せたことで、米兵達が自分もやってみようとヌンチャク手にし

  2005年12月20日の日報 (18ページ目)

  2005年12月21日の日報 (16ページ目)

ドル派事務所前で英軍車両に対する手榴弾攻撃が行われたことに関して)引き続き、サドル派の動きを注視せよ。一

  2005年12月22日の日報 (14ページ目)

身分証を持っているのか?俺の国の身分「証を米軍は見たこともないのに、何で識別できるんだ?そもそも読めるの

  2005年12月25日の日報 (9ページ目)

撃について具体的に協議。多国籍軍に対する攻撃であったことを詳細に説明し、サドル派の主張を否定。O県評議会

  2005年12月26日の日報 (18ページ目)

なんて、あいつはチョットおかしいな?と。言ってくれたことがとてもうれしかった。バスラLO日々業務報告(1

  2005年12月29日の日報 (18ページ目)

団のアジトが判明ると共に、州兵や予備役wmM4MMたことによる。 Drearts # amailog R

  2005年12月30日の日報 (16ページ目)

陸軍大尉(女性)と何度も調整した。お互い概ね了解したことから、Kは「じゃあ、これまでの内容をペーパーにし

  2005年12月30日の日報 (17ページ目)

指揮官の会議参加は、「テレビ会議ができる態勢ができたこともあり、これを利用してNSEとAND (SE)の

  2005年12月31日の日報 (10ページ目)

認されなかった。O28日にデモや群集が見られなかったことは、将来又は他地域における発生の可能性を否定する

  2006年01月06日の日報 (15ページ目)

から、この時期にずれ込んだ。准将は日本隊を訪問できたことを本当に喜んでおられた。・ 私も同行させていただ

  2006年01月06日の日報 (16ページ目)

けられることも多くなった。また、以前はあまりなかったことであるが、挙手の敬礼をされ、あわてて右手に持って

  2006年01月07日の日報 (16ページ目)

前後は、訪問者受け入れ制限や航空機の運航制限があったことから、我々だけでなく各国のLOや米軍スタッフも相

  2006年01月09日の日報 (10ページ目)

リストが毎日、テレビに映し出されるが、死刑執行されたことがない。●政府や米国はいつも短い期間で釈放するの

  2006年01月11日の日報 (17ページ目)

た。・私が空挺にいた時、若い頃の8師団長の噂を聞いたことがある。あだ名は「嵐を呼ぶ男」だったそうである。

  2006年01月20日の日報 (15ページ目)

自家発電機を備え、電力を確保しているのが実態と聞いたこともある。米軍の「@(情報戦)とのLO仲間による強

  2006年01月15日の日報 (17ページ目)

て、こんなに大勢の外国人将校達に支援してもらっていたことを実感する。5次の要因も、時間と仕事を通じて更に

  2006年01月16日の日報 (17ページ目)

しておく必要がある。ー(サドル氏がサウジから帰国したことに関して)イードが明けて、選挙結果が公表される時

  2006年01月16日の日報 (18ページ目)

C内での席がないと昨日の日誌に書いたが、今日は驚いたことに「部屋」さえもなかった!!・幕僚長執務室前の廊

  2006年01月19日の日報 (15ページ目)

に、私の帰国予定について報告した。・新しいLOが来たことについてとても喜んでくれたが、私が帰ることには色

  2006年01月21日の日報 (16ページ目)

怖を感じた。が、彼らは一様に笑顔で日本人の私と会ったことを喜んでいるように感じた。「基地内を駆け足すると

  2006年01月22日の日報 (11ページ目)

与なし。その後の報告によると、攻撃にRPGが使われたことが判明:RPGは哨所に向けられたが爆発はしていな

  2006年01月22日の日報 (12ページ目)

務所付近に英軍車両が停車し、周囲をバトロールし始めたことに反感を持った」「JAM(サドル派民兵)が射し始

  2006年01月22日の日報 (20ページ目)

我々4次要員最後の日となった。9月21日から始まったこの白席も今日で最後となった, 個性的な各国LO(日

  2006年01月22日の日報 (21ページ目)

分気持ちは伝わり、5次東京への申し送りがほぼ究了したことを実感した。 私の後に、師のほも我々に対する越盟

  2006年01月23日の日報 (19ページ目)

。13日にバスラ入りして以来、早くも10日を経過したことになる。この間、「からこれ以上ない心遣いと申し送

  2006年01月24日の日報 (9ページ目)

県 1RAQ :メイサン県身楽寺はし事案等なし。4たこと通アマラト・RANV・ .ナジャフ****Wir

  2006年01月25日の日報 (9ページ目)

イマーム・フセインがイスラム暦1月10日に暗殺されたことを悼む祭りO自らを傷つけ、苦しみを追体験しながら

  2006年01月25日の日報 (20ページ目)

ンテナが雨のため浸水し、ベッドの上まで水浸しになったことをなつかしく思い出した。砂漠の民にとって雨は「恵

  2006年01月25日の日報 (22ページ目)

いを渡した。その後、RDCスタッフの対応がよくなったことは言うまでもない。今後もスーベニアアタック(アブ

  2006年01月27日の日報 (17ページ目)

身で飲み物を取りに行かれたのでびっくりして追いかけたこともある。結局師団長から恩賜の「飲み物」を頂いてし

  2006年01月29日の日報 (20ページ目)

いたが、約7時間に及本移動となり、さぞお返れになったことと思う。ところが、全くご不満の様子もなく、ダリル

  2006年01月31日の日報 (2ページ目)

・日換算)※イラクの正月のため、役務が休暇を取得したころによるもの。

  2006年01月31日の日報 (18ページ目)

れず、丸刈りにされた。」という苦い経験談を知っていたこともあり、散髪を躊躇していた。「報告資料の作成等も

  2006年02月01日の日報 (17ページ目)

群で当時が指揮を執っている時に、幕僚としてお仕えしたことを伝えると、大変喜んでくれ、この件以降エルサルバ

  2006年02月02日の日報 (19ページ目)

る。タ会議では、前日から今までに作戦地域内で起こったこと及び今後の予定等が各隷下部隊及び旅団の幕僚から旅

  2006年02月03日の日報 (14ページ目)

な思いをしてチームをまとめ、命題成果発表にこぎ着けたことは昨日記述した。昨晩、情報部分析チーフから新たな

  2006年02月09日の日報 (17ページ目)

あるといっても、人員輸送に適したと、どんな機体かみたこともないである。人員の輸送に使えるヘリは限られてい

  2006年02月10日の日報 (17ページ目)

。会議後も、中庭で基2カ国代表が、我々は車を使用したことがなく、分担金を払うのはおかしいと熱くなっている

  2006年02月12日の日報 (22ページ目)

スト)とキリスト教の宗要くらいは映画やテレビ等で見たことがあると答えた。中佐は満足そうに微笑んで言った。

  2006年02月14日の日報 (9ページ目)

シュラ間の治安をイラク治安部隊がほぼ独力で維持し得たことがあると思料。Oムサンナ県の治安部隊の育成は、順

  2006年02月14日の日報 (18ページ目)

(定型あり)とサーティフィケイション(J9で勤務したことを証明するもの)をわたす。その後本人が一言言う。

  2006年02月15日の日報 (9ページ目)

応●鳥があちこちに死んでいるのを見たという噂を聞いたことがある。●鳥インフルエンザが怖いので、鶏肉及び卵

  2006年02月15日の日報 (18ページ目)

ると涙腺が緩む。 家には、これで3人の男の子が揃ったことになるが、長男が「 君、次男が「君、そして 君と

  2006年02月19日の日報 (20ページ目)

だ。」と聞いてきた。私が「残念だけど私は空手をやったことがない。柔道と剣道は中学・高校・大学の時に体育の

  2006年02月17日の日報 (16ページ目)

ちにしていた。2月14日に荷物がバグダッドに到着したことを確認していたが、我々の手元には届かなかった。担

  2006年02月19日の日報 (9ページ目)

と非難●伊大統領がムハンマドの絵入りシャツを着ていたことに対する非難し、攻撃すると発言(※実際は、カルデ

  2006年02月19日の日報 (10ページ目)

と非難●伊大統領がムハンマドの絵入りシャツを着ていたことに対する非難し、攻撃すると発言●イラク新政府を早

  2006年02月19日の日報 (18ページ目)

か?」と話しかけてきた。私が警備幹部としてお仕えしたことを伝えると、お互いに以前に会ったような..という

  2006年02月24日の日報 (18ページ目)

長と直接電話をする機会をもらい、また「いつでも困ったことがあったら、直接俺のところへ電話してこい!」との

  2006年02月25日の日報 (16ページ目)

いと思う。○ 消費見積出国前の情報収集により判明したこと、の垢擦りを持って行けのアメリカのシャンプーは泡

  2006年02月25日の日報 (17ページ目)

、キーボードをカチャカチャたたいている。びっくりしたことにキーを打つのが我々ではできないくらい異様に早か

  2006年02月26日の日報 (18ページ目)

経験も知識もなかったため警備の観点で「バタバタ」したことを思い出した。イラクでは、結婚式やお葬式があると

  2006年02月27日の日報 (19ページ目)

くる。その多くが、沖縄、横田あるいは座間等で勤務したことのある人で、日本で過ごしていた頃のことをよく話し

  2006年03月02日の日報 (16ページ目)

t:バグ ダッド 日 誌(3月2日)隊隊の準備は見たことに廃盤縁施設説明、帯○メリッサ少将の3度目の正直

  2006年03月05日の日報 (19ページ目)

隊の活動に非常に興味を持っており、高く評価されていたことを紹介する。バグダッドLO日々業務報告(3月5日

  2006年03月06日の日報 (12ページ目)

合調整所への往路では、即製爆弾は確認されていなかったことから、車両梯隊が県総合調整所に向かった後、設置さ

  2006年03月08日の日報 (9ページ目)

様である。Oアリ・サジェット氏は、2期議長職を勤めたことになる。同氏の指導力・実績について疑問視する意見

  2006年03月08日の日報 (19ページ目)

本コンテナから300m位のところに迫撃砲攻撃があったことが報告されていたりという具合である。弾着音らしき

  2006年03月11日の日報 (17ページ目)

連絡すると、話を通じさせるのに時間がかかって困ったこともある。しかし、どこか憎めない、得なキャラクター

  2006年03月15日の日報 (18ページ目)

た時は多少驚いたが、ほんの少し「アラビア語が分かったこと」「日本人だったこと」で救われた気がした。サマー

  2006年03月17日の日報 (16ページ目)

刈り」ならぬ「パイナップル・ヘアー」となってしまったことを反省し、キャンプ内にある散髪屋に行くことにした

  2006年03月19日の日報 (18ページ目)

ドを命じたが、それまでにバグダッド連絡班で調べていたことは全て情報提供したつもりである。日本人相手には大

  2006年03月20日の日報 (17ページ目)

者が移動しており、最終日に併せた車両移動が予想されたこと及び帰るための移動が始まること。22日にはアラブ

  2006年03月20日の日報 (16ページ目)

験がないことに気付いた。ブリーフィング資料は作成したことがあるものの、自分で実際に人前に立って説明したこ

  2006年03月22日の日報 (16ページ目)

日本隊の活動を大変評価してもらい、「ED関係で困ったことがあればいつでも尋ねてきて欲しいと大佐から直々に

  2006年03月23日の日報 (15ページ目)

に指揮官・第貸・隷下部隊を問わず、会議中に思いついたことこうやった方がいい、このやり方はまずかった等)を

  2006年03月23日の日報 (12ページ目)

行事に参加した博士にとっても、非常に良い体験ができたことである。今後とも全般状況を考慮し、この様な機会が

  2006年03月24日の日報 (17ページ目)

が放映されているようだ(バスケットや野球は未だに見たことがない。)。サッカーやラグビーのルールは多少なり

  2006年03月30日の日報 (16ページ目)

がなかなか減らず「フル・ヌード」になって体重を量ったこともあったが、「食生活の改善」と「緊張した中での勤

  2006年04月02日の日報 (19ページ目)

は遅れている。」と言ってくれる。我々も「運が良かったこと」、「予選では韓国に2連敗していること」を強調す

  2006年04月03日の日報 (16ページ目)

ョン等を書いて送ってきた。当初の間は、あまりふざけたこしたが、だんだん慣れてくると、受け狙いの方が楽しく

  2006年04月05日の日報 (19ページ目)

然に注意を向けてみる。今のところ、まだ日本で経験したことがないような暑さは体験していないし、ひどい砂嵐に

  2006年04月06日の日報 (10ページ目)

事務所/サドル派民兵にわたった可能性が指摘されていたこととの関連がうかがわれる。イラク全土の全般情勢評価

  2006年04月06日の日報 (17ページ目)

れたため、本日3度目の正直で会議に参加していただいたことになる。対外調整係長は、業務の都合上、参加できな

  2006年04月09日の日報 (22ページ目)

●ルメイサの全警察官がサドルグループに協力してくれたことへの謝意●イラク警察情報部への非難○多国籍軍を非

  2006年04月11日の日報 (18ページ目)

司令部勤務のイラク軍大佐が車(ベンツ)に乗せてくれたことだ。最初は、丁重に断ろうと思ったが、笑顔で乗れと

  2006年04月13日の日報 (17ページ目)

スラ日誌 (4月13日)1 J3配置替えが実施されたことは紹介したが、新しい配置では日本隊LO島に2人の

  2006年04月15日の日報 (12ページ目)

施したエジプトのムバラク大統領に対する非難がなされたこれらの非難については、イラクの他の地域でも見られて

  2006年04月17日の日報 (10ページ目)

の首相候補をめぐる対立が、双方の過激な分子を刺激したことによる可能性がある。また、今後の地方選をにらんで

  2006年04月17日の日報 (17ページ目)

エス・キリストが十字架上で死んでから3日目に復活したことを祝う日なのだそうだが、卵とウサギについての由来

  2006年04月17日の日報 (18ページ目)

たいと感じるのではないかと思う。実際、は、帰ってきたことをすごく喜んでくれた(人数が増えて、業務が楽にな

  2006年04月18日の日報 (9ページ目)

の中にはバドル軍団のメンバーとしてクルド人と共闘したことも含まれる。バドル軍団において、約20年にわたり

  2006年04月18日の日報 (16ページ目)

サマーワに展開した際、砂嵐の後には下痢患者が急増したことを思い出した。幸い本日の朝を迎えても誰一人腹痛を

  2006年04月19日の日報 (18ページ目)

に見えた。我々軍人には何の決定権もなく、政治が決めたことを淡々とやるだけであるが、そのプロセスの紆余曲折

  2006年04月20日の日報 (16ページ目)

くりをしているが、米軍で腕まくりをしている兵士を見たことはがない。気になり、BUA(朝の指揮官報告)でい

  2006年04月22日の日報 (19ページ目)

に対して日本語の授業を実施した。三沢・沖縄で勤務したことのある隊員もおり、「日本に対する関心が高く、日本

  2006年04月24日の日報 (19ページ目)

しているが、ほとんど2人が同時に部屋にいることを見たことがない。また、夜遅くまで残って業務を実施しており

  2006年04月23日の日報 (22ページ目)

マワに送っている。私は、自衛隊で情報関係の勤務をしたことがないので、バスラで初めて教範事項が実際の業務に

  2006年04月28日の日報 (15ページ目)

るのでやや落胆の表情も見られたが、情勢から予想されたことでもあり、冷静に受けとめられている。また、印象と

  2006年04月29日の日報 (13ページ目)

バグダッド到着を喜ぶと同時に、久しぶりに全員揃ったことを喜んだ。こうしてバグダッド連絡田に活気溢れる中

  2006年04月30日の日報 (11ページ目)

攻撃を受けたが、これは軍が決まった経路を使用していたことも一因と考えられる。即製爆弾から部隊を防護するた

  2006年05月02日の日報 (21ページ目)

た、私が27日に帰ってきてからの調整となってしまったこと、CME会議が急還日程変更され、一部重なってしま

  2006年05月05日の日報 (19ページ目)

うし、子供さんもお父さん、お母さんの顔を見て安心したことと思う。残念ながら私は、当日不在にしていたためテ

  2006年05月12日の日報 (14ページ目)

わっているとは思わず、少なからず驚いた。褒賞を頂いたことを励みとし、ここにいる限り、日本について説明し続

  2006年05月07日の日報 (14ページ目)

は、EFPの破片で死亡・3名は、燃料タンクに引火したことによる火災により死亡燃料タンクの状況被弾位置(左

  2006年05月12日の日報 (16ページ目)

ころ、空自機の飛行延期(気象条件)によって1日遅れたこと等の理由から、英軍ヘリを要請することとなった。事

  2006年05月09日の日報 (9ページ目)

クからの早期撤退を主張する野党中道左派連合が勝利したことを受け、撤収を加速させる企図を有する、特定国の政

  2006年05月10日の日報 (10ページ目)

支持を獲得するために、実施していた適正試験を中止したことは、将来的な政治路線の充実よりも、当座の勢力維持

  2006年05月10日の日報 (19ページ目)

わらず、バグダッドまで足を運び、我々を激励して頂いたことに本当に感謝している。さまざまな不便はありますが

  2006年05月11日の日報 (19ページ目)

最先任曹長会議において自衛隊の活動を効果的に紹介したことに対して、陸上幕僚長から装賞されたことを隊長から

  2006年05月14日の日報 (25ページ目)

いてみた際にはじめて、 が、航空自衛隊を定年退官したことを知った。我々の大先輩にも拘わらず全く偉ぶったと

  2006年05月15日の日報 (19ページ目)

の方が亡くなられた。1週間の内に7名の殉職者を出したことになる。イラク作戦開始後の英軍の殉職者は、これで

  2006年05月17日の日報 (9ページ目)

撃は、イラク警察が同民兵の構成員を殺人容疑で拘束したことに端を発したものである。事態を重視したナジャブの

  2006年05月18日の日報 (22ページ目)

、車両でシャイバに行ってくれないかという依頼があったことがある。IEDの脅威があるため、基地の外に車で出

  2006年05月19日の日報 (18ページ目)

道路において、あらゆる計測器が設置された道路を、見たことのない装置をつけた車両が走り抜ける。それは1種類

  2006年05月19日の日報 (19ページ目)

ない(その他の品物も多くはない)、喫茶店は未だ入ったことはないが、たまに売店に行くと結構多くの人が利用し

  2006年05月20日の日報 (21ページ目)

極めて限られた世界」での「限られた勤務期間」を通じたことで恐縮であるが、「米軍は約5~10%程度のもの夫

  2006年05月21日の日報 (23ページ目)

である。今のところ、コーヒーを頭からかぶった人を見たことはないが、注意が必要である。ここでも喫煙者は肩身

  2006年05月22日の日報 (10ページ目)

であり、事前に準備された地域にヘリコプターが進入したことにより、射撃、撃墜された可能性がある。多国籍軍が

  2006年05月24日の日報 (18ページ目)

掲げてある「日の丸」が風雨によりボロボロになってきたことが気になり、何とかならないかと思案を巡らせていた

  2006年05月25日の日報 (18ページ目)

(パート2)が主体となって立派な国旗掲揚塔を作成したことを紹介した。バグダッド連絡班として国旗の予備を2

  2006年05月25日の日報 (20ページ目)

ガラス上部に反射テープ(赤)を付けることを義務づけたことについては、サマワ本隊に通知し、既に完了していた

  2006年05月26日の日報 (20ページ目)

第10次群の皆様には、無事サマワへの移動を完了されたことで、最初の任務を達成されたことになると思う(明日

  2006年05月27日の日報 (13ページ目)

イサにおける日本隊の活動が低調を指摘するものがあったことと併せて考えると、この非難の矛先が今後日本隊に向

  2006年05月28日の日報 (12ページ目)

のモスクで増加した。これは、給電状況がさらに悪化したことに起因すると思料される。5月23日の給電時間は2

  2006年05月28日の日報 (20ページ目)

腹を感じることもなく、また食べるものがあまり無かったこともあり、最近のように間食する習慣もなかったのだが

  2006年05月28日の日報 (22ページ目)

ば、部隊交代直後とはいえ、機牲者・負傷者を多数出したことは反省の余地があるかもしれない。しかし、など当初

  2006年05月29日の日報 (37ページ目)

  2006年05月29日の日報 (40ページ目)

をしているところであった。れていたのは、が押収されたことになる。そういえば、2日前の夕方、-ーい-rw-

  2006年06月01日の日報 (18ページ目)

で調整した彼らは、既にタリルLO要員として登録されたことだろう。怪我の功名ではないが、ころんでもただでは

  2006年06月02日の日報 (19ページ目)

今まで最大で8人分位をいっぺんに作っているのを「見たことがある.しかも、作ったり、配ったりする業をするの

  2006年06月04日の日報 (12ページ目)

のである。デモ隊の武器の携行はある程度予期されていたことであるが、今後サマーウ市内で実施される電力要求等

  2006年06月04日の日報 (22ページ目)

間に、すでに1度衛星通信システムがダウンしてしまったことは、サマワ到着時にかけてくれた電話で話をした。こ

  2006年06月05日の日報 (11ページ目)

は、知的なの は国離を別的道整額にしてあるのに用いたことは、三田の激務のために気の合っていたのとおるのは

  2006年06月05日の日報 (21ページ目)

の指揮官報(BUA)で前日よりも良く英語が聞き取れたことに幸せを感じ、なかなか言えなかった英語のフレーズ

  2006年06月06日の日報 (19ページ目)

隊)及び BAS (C-130)の指揮官に会っていたことである。私達LOが得乳を100回申し上げるより隊

  2006年06月08日の日報 (15ページ目)

群長指導事項ーイラク政府の内務及び国防大臣が決まったことは喜ばしいことであり、今後、治安権限 譲が進む可

  2006年06月09日の日報 (18ページ目)

たヨルダン人、アブムサブ・ザルカウィ容疑者が死亡したことについての話題になり、ヨルダンLO曰く、「彼はヨ

  2006年06月09日の日報 (20ページ目)

世話になった も合格。昨日、治安関係閣僚も決定されたことで、見通しは明るくなってきた。その他の準備も色々

  2006年06月10日の日報 (10ページ目)

月4日のデモにおいて市民とイラク警察とに怪我人がでたことは遺憾である。治安が安定し、問題||が発生しない

  2006年06月10日の日報 (23ページ目)

、御挨拶もさせて頂いた。名前は、ちょっと早口であったことと、基本的に外国の方の名前を覚えることが苦手であ

  2006年06月11日の日報 (10ページ目)

月4日のデモにおいて市民とイラク査察とに怪我人がでたことは遺憾である。治安が安定し、問題が発生しないこと

  2006年06月11日の日報 (21ページ目)

ワを訪問した。は、以前在日米陸軍の最先任曹長を努めたことがあり、大変な知日・親日家である。サージャンメイ

  2006年06月14日の日報 (16ページ目)

大変良かった。日本の接遇は1番だ!」との言葉を頂いたこと、更に本日朝1番で「傑出して素晴らしく心地よい招

  2006年06月14日の日報 (18ページ目)

王ヴァルデーマーズがエストニアと聖戦し、勝利を収めたことに由来する。その戦いでは空から越(現在のデンマー

  2006年06月15日の日報 (16ページ目)

ワから帰獣時 『日本の接遇は-番だ』との言葉を頂いたこと。更に14日朝一番に「傑出して素晴らしく心地よい

  2006年06月15日の日報 (18ページ目)

ーリンスが準備してあり、先ず感動。座って身体を洗えたことに感激、開放最恐れる天風呂に感無量でした。身体の

  2006年06月15日の日報 (20ページ目)

連務受領済みの内容を再度確認したりといった事があったことも事実である。 また, J9・J7関係の情報と長

  2006年06月16日の日報 (35ページ目)

る際、フェアウェル・パーティーの贈り物で我々が困ったことをすでに承知されており、VIP用の記念品やコアリ

  2006年06月17日の日報 (18ページ目)

キー首相の会談において、MNFの駐留継続が決められたことを非難する。●テロ集団ハマスがザルカウィを讃える

  2006年06月17日の日報 (20ページ目)

キー首相の会談において、MNFの駐留継続が決められたことを非難する。●サマーワにおける燃料問題に関して、

  2006年06月17日の日報 (21ページ目)

軍をはじめとするMN「Fのイラク駐留継続が表明されたことを受け、MNFの駐留に反発する発言が確認された。

  2006年06月17日の日報 (40ページ目)

さず近寄ってきた。ルーマニアLOのフェアウエルに来たことを伝えると、丁寧だが有無を言わさぬ態度で中庭に案

  2006年06月17日の日報 (43ページ目)

にたくさん食べるのか?」『私は、もう何年も鯨を食べたことはない。殆どの日本人もめったに食べられない。』「

  2006年06月18日の日報 (10ページ目)

ー首相の会談において、多国籍軍の駐留継続が決められたことを非難する。●テロ集団ハマスがザルカウィを讃える

  2006年06月18日の日報 (11ページ目)

ー首相の会談において、多国籍軍の駐留継続が決められたことを非難する。●サマーワにおける燃料問題に関して、

  2006年06月18日の日報 (21ページ目)

る。好きなのは日本製品ばかりではない。横田で勤務したことがあり、日本人の礼儀正しさや元帳面さから「日本」

  2006年06月19日の日報 (19ページ目)

とコインを渡すと、渡された方も日本隊の友人」となれたことを誇りに思ってくれる。これらコインは出国前に業務

  2006年06月19日の日報 (30ページ目)

ー首相の会談において、多国籍軍の駐留継続が決められたことを非難する。●テロ集団ハマスがザルカウィを讃える

  2006年06月19日の日報 (31ページ目)

ー首相の会談において、多国籍軍の駐留継続が決められたことを非難する。●サマーワにおける燃料問題に関して、

  2006年06月19日の日報 (41ページ目)

る。好きなのは日本製品ばかりではない。横田で勤務したことがあり、日本人の礼儀正しさや凡帳面さから「日本」

  2006年06月19日の日報 (63ページ目)

コインを渡すと、渡された方も「日本隊の友人」となれたことを誇りに思ってくれる。これらコインは出国前に業務

  2006年06月20日の日報 (19ページ目)

マリキ首相がムサンナ県の治安権限移譲について発表したことを受けて、日本政府は撤収を正式に決定し、防衛庁長

  2006年06月21日の日報 (24ページ目)

正面において陸士が勤務していることは、ほとんど聞いたことが無いし。部隊においても、2科、2体に陸士を配置

  2006年06月23日の日報 (29ページ目)

ッドの片隅で、これまで一隅を照らす思いで勤務してきたことが報われた気がした。「ミーティングが終了し、帰路

  2006年06月24日の日報 (42ページ目)

ッドの片隅で、これまで一隅を照らす思いで勤務してきたことが報われた気がした。「ミーティングが終了し、帰路

  2006年06月26日の日報 (15ページ目)

え子」であることもあり、今回の訪問が円滑に実施できたことを安堵し、また人の縁の深さを感じている。バグダッ

  2006年06月27日の日報 (8ページ目)

とから推定0 攻撃を受けた際、を作動させていなかったことから、結線による起爆の可能性も否定できない。・・

  2006年06月27日の日報 (20ページ目)

負傷者の救出強送が実施された。ダリルベースが近かったこともあり、迅速に対応されたので有り難かったと思う。

  2006年06月28日の日報 (18ページ目)

れていたときに、彼の存在がどれほど勇気を与えてくれたことか。2人のお子さんに鶴を折ってくれと頼まれた時、

  2006年06月30日の日報 (17ページ目)

部屋のドアの外で聞き、「今のは凄かったね。』と話したことを覚えている。その時の の感想は「誰かが屋根の上

  2006年07月01日の日報 (17ページ目)

議に参加したとしても2日連続してBUAを不在にされたことがなかったため、余計なお世話ではあるが、何があっ

  2006年07月01日の日報 (18ページ目)

がら本日0800を過ぎてデータを入手したので、遅れたことを詫びて提出したが「日本隊が1番早かったよ。問題

  2006年07月03日の日報 (18ページ目)

間、多国籍師団とサマー・ワとの架け橋として勤務できたことに幸せを感じている。また、多国籍師団から受けた数

  2006年07月09日の日報 (20ページ目)

下着を替えることもままならず「着た切り雀」で苦労したことを思い出した。今回受け入れにあたり、我々が苦労し

  2006年07月10日の日報 (7ページ目)

は二の流れによるものと思料。また、本デモが組織されたことからも、上記の失職警察官の復職については流動的と

  2006年07月11日の日報 (14ページ目)

送りの時間を確保でき安堵している。身分証を入手できたことで早速、昨日MNC-I 副司令官」 「のところへ

  2006年07月13日の日報 (7ページ目)

て豪軍に再確認したところ、対砲迫レーダに反応していたことが判明のLEA怒PRESETTENTAGE ta

  2006年07月15日の日報 (8ページ目)

よ。・統制のある行動明日以降の行動についてやり残したことがないようにやるべきことを徹底せよ。最終波で注目

  2006年07月16日の日報 (7ページ目)

足のために班長の右腕になるどころか足手まといになったことが多々あり、迷惑をお掛けたしたものの、私にとって

  2006年07月16日の日報 (8ページ目)

るチーム・リーダーに、が頻繁に指名(時には立候補したこともあったが.)され、他国のスタッフの2~3倍の割

  2006年07月17日の日報 (6ページ目)

グダッドで話しかけてくる米軍人の多くは日本に勤務したことがあるという。陸軍ならば沖縄、座間、海軍は横須賀

  2006年07月18日の日報 (5ページ目)

うにも拘わらず、逆にイラクのことばかり心配してくれたことを心から感謝している。またバグダッド連絡班のすば